猫丸邸騒動記

猫よりも 猫らしくとや 猫の道

カスタードプリンのかなしみ

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 ここが嫌いなわけじゃない。
 ただ、決定的に欠けているものがひとつだけある。それは、命と同じくらい大事なものなんだ。
 少年はそう言ってうつむいた。

「花粉症っていうけどさ、私あれ、違うと思うんだ」
「花粉が原因じゃないとかそういうこと?」
「違う、違う。花粉症が辛いっていうけど、ほんとに辛いのはお前じゃないだろうって話よ」
「ええ〜?何言ってんの、だってめちゃくちゃ辛いでしょ。一日中ムズムズするし頭ぼんやりするし、もう春なんか来なくていいって思うくらいだよ。それにさ」
「落ち着け、わかるよ。私だって花粉症だ」
「あ、そうだよね」
「花粉症、って世の中で呼ばれているやつ、ってことだけどね、あくまでも」
「あーはいはい、それで」

 花を咲かせて、果実を実らせないと生まれてきた甲斐がないとか、そういうのも別にないんだ。
 変だと思う?そうかな、けっこうみんな、そうだと思うけど。
 生き物として不自然じゃないかって?本能はどうしたって?
 だからね、生まれてきた以上子孫を残さないといけないっていうのは、じぶんの気持ちじゃなくて、言ってみれば遺伝子の気持ちだと思うんだ。別の言い方をすれば、競い合って殺し合っても誰かが生き残れ我が遺伝子よ、って命じて死んじゃった、遠いご先祖さまの気持ち。そうそう、君らと僕らの共通のご先祖ね。ちょっと迷惑なやつだよね。きょうだい同士殺し合って強くなるのを見て喜んでる親って。
 そういうのから自由に生きたいんだ。君らの世の中でも、同じこと思う人、いるんじゃないかな。

「だからさ、人の鼻の中だの目の中だのに入っちゃった花粉の方がよっぽど辛いじゃん」
「でも、花粉なんて辛いとか、思わないでしょ」
「なんでわかるんだよなんでなんで!花粉になったことあるのかよ」
「ないけどさ……まあ興奮しないでよ」
「花粉はさ、花のめしべまで行くために飛んでるわけじゃん。受粉して、実がなって、種ができて、っていうのがないと、絶滅しちゃうじゃん」
「そういえばそうだよねえ、確かに」
「それがさ、何が悲しくて人間の鼻の中に入っちゃってさ、鼻水と一緒にティッシュの中に出されて丸めてポイって!」
「うんうん、そうだねそうだね。ほらでも、花粉ってすごくいっぱいあるでしょ。いっぱいあるうちのどれかが受粉できればOKっていう、何ていうの、自然界の掟っていうか、数で勝負の戦略っていうか」

 誰かがそういう役割をすれば十分だと思うんだ。一度に一億個の卵を生む魚がいるの、知ってるよね。あれだって、成長する途中でほとんど死んじゃうのも仕方なし、ってことだよね。逆に全部が成長したら大変なことになる。
 それに僕の場合、他のやつらより早く死ぬってわけじゃないんだし、流れ着いたところで、自分らしくいられれば満足だよ。
 誰かが子孫を残す役割をすればいい、って言ったけど、誰もしなくてもそれはそれでありだと思う。滅び去るのも自然なことだから。みんながしたがって競争したとしても、いいと思うよ。そういうの、否定したいわけじゃない。自分は自分だってだけ。

「そういうこと言い出したら、人間だって、ちょっとくらい死んだって全体としては問題ない、食料足りてないんだしかえってラッキー、みたいなこと言うのと同じでしょ」
「そうかなあ」
「ひとつぶひとつぶの花粉の身にもなってごらんよ、泣いてるんだよ花粉が」
「花粉は目とかないから泣かないんじゃ」
「そういうことじゃないってば。人間はかゆいくらいで済むけど、花粉は人生かかってるんだから。花粉症っていうのは、だから、花粉が人間に取り込まれちゃって悲しんでて、それで起こる症状だと思うわけ」
「花粉が泣くと、人間の鼻とか目がかゆくなったりする、と」
「そうそう。花粉が人間症にかかってるんだよ」
「あー、発想の転換てやつだね」
「わかってくれたか」
「あれ?でもさ、それ変だよ。だって、花粉症じゃない人がなんでいるの。花粉にとっては、誰の鼻の中に入ったって同じことじゃん」

 暖かくて、薄暗くて、湿ったところ、好きだし。そんなに居心地悪くないよ、ここ。
 どこにいても、その場所で精一杯楽しもうって覚悟してる、最初から。だから十分すぎるくらい。

「そう、ここからが問題なんだよ」
「えっ、まだ続きあるの?」
「花粉のひとつぶひとつぶはさ、別に花のめしべに届くために生きてるわけじゃないと思うんだ」
「花粉は生きてるのかってのも微妙だし、さっきの話と違うのでは」
「いいからいいから。さっきのは、話をわかりやすくしようとしただけ。風に任せて飛んでいって、たどり着いた新天地でがんばろうっていうのが花粉の基本的な生き方なわけさ」
「うーん、そうかもね。羽とか足とか、ないからね」
「だから、どんな場所にでもそれなりになじんで、うまくやるはずなんだ」
「人間も、与えられた環境でできるだけがんばるしかないもんね」
「そうだよ。でもやっぱりさ、人間だって、これだけは譲れないってものが、あるだろ」
「えっ、あんたそんなのあるの?何?」
「いや、何だかまではわからないけど、あるんじゃないかなあって」
「そういうことか。あるのかなあ。『生きがい』みたいなやつのこと?」
「わからん。でもあるのかも」
「あるのかもねえ」
「そう思うでしょ」
「で、花粉はどうした」
「花粉にとっても、大事な、譲れない『何か』があって、それが足りないんだと思う、花粉症の人の体の中には」
「だから花粉が泣いて、花粉症になるってこと?」
「うん、まあほんとは、花粉の人間症なんだけどね」

 わかってもらえるといいんだけど。
 ここが嫌いとか不満とか、そういうことじゃないんだよ。
 でも……。
 彼は空を懐かしむように上を見上げて一粒涙をこぼすと、それきり何も言わなくなった。

「私たち、何かが足りないんだ」
「足りないんだよ、悲しいよね」
「悲しいねえ。って、そんなわけあるかよ!……まあでもそこまで言うなら、何が足りないのか考えなよ」
「ひとまず、プリンじゃないかと思うので試してみたい」
「それ賛成。ひょっとしてプリンが食べたくて今の話」
「違うよ、全然違う」
「他にも色々食べたいんだな、さては」
「食欲の春だからね」
「だね」

 彼が何を欲しがっていたのかは結局わからなかった。私が何をしたかったのかも本当はわからない。ただ、少年の体といい髪といい、そして涙といい、透明感のある美しいクリーム色だったのだ。
 ちょうどカスタードプリンのような。

 

お題「花粉症」で書きました


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流れ島流離譚 7

 坂の勾配を感じなくなってきていた。
 実際に平らな道なのか、感覚が麻痺してきたのかには確信が持てない。
 見たことのない木ばかりで構成された森が続く。せり出してくる枝をシマナガシが時々器用に避け、時々片手でぽきりと折りながら足早に先を行く。どうにかついてゆくあいだにも、しばしば大きな葉の端が顔や腕を撫でたり、引っ掻いたりする。それがいかにも野放図で遠慮のない熱帯植物らしい流儀に感じられるのは決して不快なばかりではないが、不慣れな私はその度にちょっとした疎外感で縮こまって自分を小さくする。
「ここからは秘密の場所なんですよ」
 不意にシマナガシが歩みを止め、振り返って言う。
「ここからも何も」
 改めて、この森の中で置いて行かれたらどうなるかという恐怖が足元から上がってくるが、今さら考えないに越したことはない。
 シマナガシがまるで儀式のように深呼吸をするので真似をした。
 胸を開き、息を吸い込みながら空を仰ぐと、目の前に門があった。砂色の太いつるがくねくねと曲がって絡み合い、私の身長の倍ほどの高さのアーチを形づくっている。その上をさらに、何種類かの細い蔓性の植物が這い、濃い緑、ぼやけた黄色、いぶしたようなオレンジ色、などなど、色とりどりの奇妙な葉で門を飾っているのだった。
 
「ようこそ次の世界へ」
 ------出会った時の鼻侯爵の言ったことを思い出していた。
「はじめまして。私は鼻侯爵、私はある種の装置、或いはあなたの世界にとっての何らかのスイッチです」
 
 妙なポーズつきで発せられたその言葉を、思い出すばかりか、口にも出していたようだ。
「何をごちゃごちゃ言ってるんですか」
 油断した隙にシマナガシに背後を取られていた。首にシマナガシのふさふさした腕が巻きついている。そしてどういうわけか頭頂部をもう一方の手でぎゅうぎゅう押されているのだ。
「ちょっと待って、何するんです、やめて下さいよ」
 弾力のある肉球で頭を押されるのは実は悪くない気分だったのだが、爪が刺さったりしては惨事になると気づいて抵抗した。
 シマナガシはあっさりと体を離した。
「何って、スイッチだって言うから、押してみたんですよ。違うんですか」
「違う、違う、回想に浸っていただけだから」
 何から説明したものかと考えていると、
「じゃあ、行きますよ」
 シマナガシはもうけろりとして奇妙な門をくぐっていった。
 さっきまでこんなものはなかったんじゃないだろうか。私も首を捻りながら後へ続いた。 
 

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流れ島流離譚 6

 鼻侯爵に会った頃、私は毎日、仕事からの帰路を誰かにつけられていた。
 その時は、家も間近な、しかし最も暗い道にさしかかっていた。びくびくしながら、ポケットの中の防犯ブザーに手をかけ、早足で道を急いでいたところ、行く手を大きな影が塞いだ。つけてくる気配を背後に感じていたのだから、ワープか、挟み撃ちか、と恐怖も倍増するというものだ。だが、やはり声などは出なかった。
 だいたい、現れたものが想定の外の外、大きな猫だったのだ。頭に毛糸で編んだベレー帽をかぶっていた。帽子の真ん中のへそのような部分、つまり頭頂部からは、茎が伸びていて、その先に花が咲いていた。花の種類はよくわからないが、コスモスやガーベラのように平べったい、オレンジ色の花だったと思う。
 
「それにしても簡単な手にだまされましたね。なに、単純な原理の幻燈機ですよ」
 シマナガシの声で我にかえる。見知らぬ巨大猫と相対しているのはあの時と同じだが、人間、慣れるもので、もはや違和感がないことが恐ろしい。
 シマナガシがしゃがみこんで拾った落し物は、やや大きめの懐中電灯だろうか。それと、セロハンの切れ端と思しき物が何枚か。
 なるほど、木の幹に映った顔の正体だ。こんな仕掛けに驚いた私も私だが、幼稚ないたずらにもほどがある。私がここへ来ることがわかっていて、あらかじめ作ってあったのか。それとも日頃からこんなもので遊んでいるのか。子供か。だいたいこれは「幻燈機」というほどのものなのか。私は騙されそうにはなったが見破ったのだ。
 チェシャ猫のことを「知恵者猫」だと思っていた子供の頃をふと思い出し、こんなのをチェシャ猫のようだと思ってしまった不覚を恥じた。
「話の続きがまだですよ、何なんです、ハナコーシャクって」
 シマナガシはまた両手を腰に当てて期待にみちた目で見ている。案外としつこい。
「本当に知らないんですか。あなたと同じくらいの大きさの、言葉を話す猫なんですが」
「何をそんなに疑っているんです。お互い腹を割って話しましょうよ、女同士」
 こいつ女だったのか、と思うや否や、シマナガシはニャッ、と鳴き、「今、同じことをあなたに対して思った人が5人くらいはいますね」と、気味の悪いことを言った。
「心が読めるんですか。それに5人ってどういうことです、このへんに他にも誰か」
「いやなに、初歩的な推理ですよ」
 あくまでもシャーロック・ホームズ気取りで答をはぐらかす気だ。島流しにしてくれよう、と言った声と頭の中で照合するも、まったく違う気がする。
「じゃあ、お茶でも飲みながら話しましょうか」
 シマナガシは歩きはじめた。
 
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流れ島流離譚 5

 猫の顔が近くまで迫ってくる。巨大猫に食べられる最期、というのはまあ悪くもないが、とりあえず今は避けたい展開だ。
 考えろ、ここは奇妙奇天烈な世界なりに、何かしらの法則には従っているはずだ。
 生えている植物だってふつうだし。
 いや、よく見るとふつうじゃないのか?見たことのない木や草ばかりだ。でも、南の島なんかに来たことないのだから植生を知らないのは当たり前か。動物はどうだ。そうか、この変な猫しかいないんだった、今のところ。
 鼻侯爵が現れたときはどうだっただろう。私のことを随分よく知っているみたいだったが。
 
「食べられるの?美味しいの?ねえねえ」
 戦略を練ろうというのに、変な猫が邪魔をする。時間切れだ、仕方がない。
「その前に聞きたいんですが」切り出すと、猫はこちらを向いたまま少し顔を引いて、パチパチと瞬きをした。話が通じそうではないか。「いいでしょうか」
「どうぞ。気が向いたら答えましょう」
 胸をそらして、どういうわけだか得意げな顔になる。
 本当に話が通じるのか怪しい雲行きだが、相手は猫だ。細かいことは気にせず、当たってみるしかない。
「私のことを知っていますか」
「何ですって?」
「つまりその、名前とか、どこから来たかとか、そういうことを」
 猫は沈黙し、透き通った宝石のような目でじっとして見ている。さすがに常識外れの質問だとの自覚はあるが、猫の常識というのもよくわからない。それにしても、何を考えているのやら、答えてくれる気はないのだろうか。
 私も見つめ返す。元来の猫好きなもので、こうした気まずい沈黙も、猫の姿を見ていれば楽にしのげてしまうあたり、我ながら危機感が足りないかもしれない。
「当たり前じゃないですか」沈黙を破ると、猫は片手をばたばた上下に動かしはじめた。「何を言ってるんですか、今さら」
「ああ、やっぱりそうなんですか。でも、私はあなたのこと、知らないんですよ」
「そりゃあそうです、初めて会ったんだから」
 先ほどの興奮はどこへやら、今度は落ち着き払って顎などなでている。
「はあ、そういうものなんですか。まだ事情が飲み込めないもので」
「ふーむ、それならしょうがないね」
 驚くほどあっさりと引き下がるのはどうにも怪しいが、こちらはもう引くに引けない。
「で、あなたは誰なんですか」
 核心をつくのが早かったか。
 が、猫は躊躇する様子もなく答えた。
「私ですか?私は、シマナガシですよ」
「島流し?」
 声を裏返した私に、シマナガシはますます得意げな顔を見せると、両手を腰にあてて胸を張った。ずっと背中に隠していたほうの手が何かを落とし、足元で硬い音がした。
 
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流れ島流離譚 4

 本当に驚いた時には声など出ないというが、その時の私は、声のかたまりが喉に詰まって息ができないのに近かった。
 目の前の木の幹に浮かんだ猫の顔が消えたかと思うと、今度は隣、そのまた隣の木に。そして、『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫のように、笑いながら消えてゆく。といっても、猫の表情までつぶさに見えたとは考えにくい。笑った気がしただけかもしれない。
 この後、どんなことが起こるのだろうか。島流しにありそうな災厄として、海に落ちるだの、穴に落ちるだのの他に、蛇に噛まれる、食べ物がない、あたりまでは想像できたが、そういう種類のことではないのかもしれない。やはり、とんでもないところへ来てしまったようだ。
 一方、驚きながらもどこかに違和感を覚えていた。
 猫の顔は十歩ほど先の木の幹まで移動したかと思うと、またすぐ近くの木へと近づいてくる。私は敵の分身の術を見破ろうとする剣豪のようなポーズで聴覚に集中した。猫の顔からは音がしない。運動神経などあってないような私だが、これでも耳は良いのだ。
 そして、見破った。静寂の中、唯一といっていいほどの微かな音が、猫の顔が島の深部へいざなうように連続して現れた方向とは違う、崖に沿って再び海岸へと下りてゆく方からするという、違和感の正体を。
 まっすぐ歩いてゆくと、音の発信源が、諦めたのか自ら木の陰から出てきた。
「こんにちは。驚きました?」
 両手を後ろ手ににじり出て、とぼけた調子で話すそれは、やはり二足歩行する超大型の猫であった。灰茶色に黒い縞のある、やや毛の長い猫である。鼻侯爵はグレー一色の短く密な毛で被われた猫だから、別人、ならぬ別猫のように見える。だが、人を驚かすためとあらば毛を縞模様にでも染めかねないあの性格を鑑みるに、この人騒がせな猫が鼻侯爵でないと断言できるだろうか。
「さっきから何なんです、ハナコーシャクだのハナチャンだのって」
 猫がハナ、と発音する度に、鼻の上にしわを寄せるのがおかしい。鼻侯爵にもこんな癖があっただろうか。
「確かにもようが違うけれど、本当に鼻侯爵じゃないの?」
 疑いのたっぷりこもった目でじろじろ見ながら言うと、猫は美しい青緑色の瞳で見つめ返す。
「だから何それ。食べられるの?」
 どうも本当に別猫らしいのだった。
 
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百年の読書

 百年という名の書店に行った。

 吉祥寺にある古書店であるが、久々の古書店の雰囲気がとても心地よかった。

 本がたくさんあるのは嬉しい。本が大好きだ。世の中にこんなにもたくさんの本がまだあるかと思うとぞくぞくしてくる。そんな感覚が、実に久しぶりだった。

 

 というのも、うちの近所では古書店が続々と閉店しているし、新刊書店は、「すごく売れている本」に割くスペースばかりが年々増えていく印象だ。

 売れているからだめなどとは思わない。多くの人が求めているからにはその本に何かしら特別さがあるのだろう、と手に取ったりもする。ぱらぱらと読んでみて、自分なりにその「特別さ」を見つけ出してみる。それは面白い体験だ。

 そういう時、自分ではないバーチャル別人視点、のようなものを装着していると思う。実際のところそれは自分でしかないのだけれど、ちょっと自分自身から離れた視点を持つのは大事なことだ。そう感じるからこそ本屋さんで特に心がときめくわけではない本を手に取ってみたりもするのだが、その「バーチャル視点」、装着しっぱなしは疲れる。非常に疲れる。でも、思ったほど自由自在には着脱できないようなのだ。

 店主の確かな趣味で集められた古書の林に分け入った時、バーチャル別人視点がぽろぽろと落ち、本を読みたい!本大好き!というネイティブ・自分の煩悩が解放される心地がしたのであった。

 単にその書店の趣味が私の趣味に一致したということでは、必ずしもない。もちろん、趣味のかぶる部分の割合が一定以上あったのは間違いない。だがそれよりも、ありがちな言い方ではあるけれど、大多数の行く方についていくのではないあり方を、「本」の世界で久しぶりに見たように感じたのだ。しかも、こうありたいという言葉だけではなく、静かに実践する姿として、とても強く。

 本が売れないとか本を読む人が減ったとか言われているし、紙の本はこれからまた衰退の道を辿るのかもしれない。でも、人が「読む」「見る」コンテンツを求めていないわけではない。そう思えて仕方がないのは自分が旧人類だからなんだろうか。

 

 ともかく、バーチャル別人視点を極力装着しないで自由に書きたい、考えたことも、自分が本当に読みたいものも。ここで非常に匿名性の高いやり方で、知り合いには誰にも教えずにひっそりと書き始めることにしたのも、そういう欲求のさせたことだったと思う。

 というわけで、これを何かの偶然で読んで下さった、袖擦り合ったご縁のある方、どうぞよろしくお願いします。

 

 それでは、また。

 

流れ島流離譚 3

 
  とにかく、鼻侯爵を追うことにする。
 肩を組んで見下ろす巨人たちのような崖は、さすがによじ登るには厳しそうで、とかげや虫なら楽々と登るだろうなあ、とあまり役にも立たない想像をする。正確には、人間であっても身が軽ければ登れる高さだろうが、私の運動神経では絶望する他ない。
 ふと思い至り、周囲をきょろきょろ見回す。
 では、とかげにしてくれようか、という声が聞こえてきはしないかと気になったからで、まだこの世界への信頼とでもいうものに圧倒的に欠けているのだった。立っていて爪先がむずむずと落ち着かないのも、足元の何の変哲もない土にさえ欺かれている気がするからだろうか。しかしこの座りの悪さには覚えがある。船上にいる時の感覚ではないだろうか。そういえば、先ほどから地面がわずかに揺れてはいないか。
 試みに吹きだまりを脱し、陸地の果てと遠くの海とを見比べる。息をひそめ、身じろぎもせずに。ひどく静かだ。海も静かならば島も静かで、揺れている気配はない。
 いったいここはどこなんだろう。私は何をしているのか。
 じっとしていると、これまで考えずにいたことが頭の中を占拠しようとするのだが、そんなことより鼻侯爵だ。考える暇なら後で売りたいほどにできるだろう。土産物でふくらんだ旅の荷物をスーツケースに押し込むように、終わりのない問いかけを頭の中にしまう。
 吹きだまりの壁となっていた崖を改めて外から眺めると、なんのことはない、切り立って見えたのは中からだけのことで、ゆるやかなスロープ状の斜面に導かれて簡単に回り込むことができそうなのだった。
 
「おーい、鼻侯爵」
 斜面を一歩上るごとに、すぐ目の前にせり出してくる枝だの葉だのの数が増える。が、けもの道すらない森の中とはこういうものかと、のんきに感心しながら踏みしめる足元は、意外なほど平坦で歩きやすく、無心に足を動かしていると、ここがどこかなど、次第に気にならなくなってきた。先ほど吹きだまりから見上げた辺りにたどり着く。崖下のほうを見れば、砂浜、海、海、あとは水平線までひたすら海である。逆へ振り返ると、下から見たほど鬱蒼とした密林ではなく、まだ上り坂が続くものの、それもあと少しで果てそうだとわかるくらいの見通しがある。
 
「おーい、ハナちゃーん」
 これは鼻侯爵がひどく嫌がる呼び方だった。人間くさいところが多々あったが、気にそまない呼び名に対する迷惑そうな表情は猫そのもので、思い出すだけでおかしくなる。
「ハナちゃーん、出ておいで」
 その時、後ろでがさごそと音がした。はっとして振り向いたとたん私は凍りついた。
 目の前の、大きな葉を茂らせた芭蕉のような木の幹に、大きな猫の顔が浮かび上がり、またすぐに消えたのだ。f:id:nekonumanekomaru:20150303162549j:plain

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